序 文
Brain Function Test 委員会委員長
岩田 誠
日本高次脳機能障害学会では,日本失語症学会の時代から,Brain Function Test委員会(BFT委員会)というものを作って,さまざまな検査法を開発し,これを出版してきた。いずれも,日本人の手になる日本人のための検査法の開発ということを目的として,さまざまな高次脳機能障害の診断と評価のための標準的な検査法を作ろうとしたものであるが,学会レベルでこのような一連の検査法を開発するという事業は,他に類を見ないものである。その結果としてこれまで世に出たものとしては,標準失語症検査(SLTA)とその補助テスト(SLTA―ST),標準高次動作性検査(SPTA),標準高次視知覚検査(VPTA)があり,それぞれ失語症,失行症,そして視覚失認の検査手段として,わが国の臨床の場で広く使用されている。
これらの検査法のうち,標準高次視知覚検査(VPTA)は,鳥居方策先生と,故 榎戸秀明先生,ならびに加藤元一郎先生をはじめとする多くの先生方のご尽力の下,約10年間の長い歳月を経て1997年にやっと完成をみたが,その前後から,BFT委員会として次に取り組む検査法は何であるべきかについて,何回かにわたって討議が重ねられた。具体的には,視覚失認の検査に続くものとして聴覚失認を目標とするような検査法を開発していくべきか,あるいは注意障害にスポットを当てた検査法の開発を行っていくべきかについて議論したのである。これらの病態に対する標準的な検査法の開発は,日常臨床の場において,いずれも強く求められており,完成した場合にはどちらもきわめて有用な検査法となるであろうという点では意見の一致を見たが,限られた人員と限られた予算の中で検査法を開発していくということになれば,一度にいくつもの検査法の開発に当たることは不可能であったため,どれか1つに的をしぼって開発せざるを得なかった。そこでBFT委員会としてこれら2つの検査法のどちらの開発を優先すべきかについて論議を重ねる間に,さらにもう1つの検査法開発の必要性が浮かび上がってきた。それは意欲評価のための検査法の開発という提案である。臨床の現場では,とくにこの意欲の評価法の必要性が高まっているとの,提案者志田堅四郎先生のご意見は,BFT委員会の方向性を決めるに大きな力となった。その後何度かの討議の結果,BFT委員会の次の目標は注意・意欲評価のための検査法の開発とすることが決定され,最終的には,注意検査法と意欲評価法の2部からなる標準的な検査法を開発することとなったのである。その後の,これらの検査法の実際の開発の経緯については,加藤元一郎先生が詳細に述べておられるので,それを参照していただきたい。(編集部追記:実際のマニュアル冒頭、または「高次脳機能研究」26巻3号310-319にあります。)
これらの検査法の開発が順調に進んでいる間に,思いもかけず,これらの検査法の必要性がきわめて高くなるような状況が出来した。それは,厚労省による「高次脳機能障害」支援モデル事業の開始である。主として外傷やくも膜下出血などによる前頭葉損傷などによって認知機能障害を生じた患者は,肢体不自由,失語などの言語障害,平衡機能障害などのような身体障害の認定対象にはならず,精神障害としての認定も適切ではないと思われたため,その救済策が考慮されるに至ったことは大変望ましいことではあったのだが,それらの患者の呈する障害をひとくくりにするために用いられた「高次脳機能障害」なる行政用語の突然の出現は,本学会が日本失語症学会から日本高次脳機能障害学会へと名称変更を行った矢先だったため,本学会を活動の中心とする現場のものたちにとっては,大きな混乱を引き起こしてしまった。このため,本学会では,行政用語としての「高次脳機能障害」を何か別の用語に変更してほしいという要望を再三厚労省に提出してきたが,その点においてはなんらの変更もなされないまま今日に至っている。このことは,本学会としてははなはだ遺憾なことであると言わざるを得ない。しかし一方,この行政用語として使用された「高次脳機能障害」の内容として,注意障害や意欲障害が取り上げられていたことから,それらの障害の診断と評価において,本学会で開発中であった注意検査法や意欲評価法の意義が評価され,その完成がおおいに期待されることになったことも事実である。1つの検査法を開発している間に,その検査法の社会的ニーズが大きく変化するという,きわめて稀な状況が生じたのである。
最後になるが,ここにお届けする2つの検査法の開発にあたっては,実際の検査法の開発にあたられた方々だけでなく,さまざまな病態を持っておられる対象者に対して,本検査法の試作版を試行してくださった方々の,献身的な努力に負うところが大である。しかしそれ以上に,本検査法の試行にあたり被検者としてご協力いただいた,障害を持つ多くの方々,および健常対象者としてご協力いただいたすべての方々に対して,ここに深甚の感謝を捧げたいと思う。これらの方々のご協力なしには,本検査法が世に出ることはなかったのである。今後本検査法を現場で使用されるすべての方々に,このことを忘れないでいただきたいと思っている。