心の臨床
熊倉伸宏:著
2014年発行 B6判 190頁
定価(本体価格2,400円+税)
ISBN9784880021782

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内容の説明▼

臨床の困難、痛みに気づいた臨床家に贈る、心の感動作。
心とは何か、いかに人間を、心を捉えるのか。
見かけのハウツウではない。初心者向けに書かれた「面接法」の読者に応える形で何度も噛み砕いて説明しながらその根源的な考え方を伝えるために企画された。読後に広がる静かな感動をぜひ実感ください。

この本を手にされた方に
 この本の目的は、「心の臨床」の基礎にある考え方を示すことである。
 私は既に、初心者向きに、「面接法」など、幾つかの本を書いた。それを読んだ方から、その背後にある「考え方」を、もっと、詳しく書いて欲しいと要請があった。
 もはや、「心」とは、「人」とは、そこから書かないと読者は納得しない。
 読者が、そのように望むことは、私にはうれしいことである。それ故に、読者が興味をもって読めるように書いた積りである。しかし、私にとっても言葉にしがたい深い水準で書くのであるから、難解な表現も多々ある。むしろ、読者が、その難解な部分にこそ、「心」の膨大な神秘を発見し、臨床に新たな関心をもっていただけたならば、この本の目的は達せられる。
 この本の読者は、医師、臨床心理士、看護師・保健師、社会福祉士、それを専攻する学生、及び、それを教える人たち、更には、心に関心がある方たちである。

2014年1月1日  熊倉伸宏


第一章 心の臨床とは何か
1.「心」とは何か
 「心の臨床」が、私の能力を遥かに超えたものであると気付くまでに、十年はかかったろうか。
 初めての自殺例も体験した。この私でなければ、彼は助かったかもしれない。そこに生き残る臨床家はイカサマ師か。そのようにも考えた。当時、私を支配していたのは、ただ、無力感と後悔であった。不可能な職業を選んだ自分が愚かだった。そして、この不可能な職を、何時、辞めようかとのみ、考えていた。
 今は、おもう。
 膨大な内なる自然、つまり、「心」。その圧倒的な自然の前で、いかに人間が無力であるか。それを私に教えてくれたのは、この生業であった。臨床での痛みが私に教えてくれたものは、愛おしい人間の姿だった。
 初冬の夜明け前、これを書く私の目に、一つの流れ星が飛び込んできた。そのように、はかなくも、感動的なもの。それが人間だった。臨床で出会う人たちは苦痛の中でこそ、自分では気付かなくとも、キラキラと輝いていた。彼ら、彼女らは臨床家としての私に助けを求めながらも、実は、私に、何が大切かを教えてくれた。「人は何故、生きるか」、「なぜ苦しむか」。私は彼らと、実に、多くのことを話し合った。
 本書では、私が体験した出会いの大切さ、楽しさを、先ずは、読者に知っていただきたいとおもう。臨床的出会いが臨床家に対して持つ意味。それを自ら気付かないことこそが恐ろしいことだった。今、私は臨床での多くの出会いに、そして、痛みに心から感謝している。そうおもう私が、今はいる。
 そのような変化の過程で学んだことを、本書に書く積りである。


 臨床を、人を、恐れることはない。
 臨床の困難に気付き、痛みを知った臨床家たちに、そのようなメーセージを送るべく、本書を書いた。そのような方にこそ、臨床にとどまって欲しいからである。


 さて、臨床学習とは何か。
 学習とは、先ずは、模倣である。「何か」をコピーすることである。


 臨床家とケースの初めての出会いは、日常的な挨拶から始まる。
 先ずは、相手の姓名、職業、住所を確認する。そして、臨床家自身の名前、臨床資格(職種)、勤務日等、必要な情報を伝える。自己紹介の後で、私は、「よろしく」と一言、添えることが多い。そして、問う。
 「あなたが、ここに来た理由は何ですか」
 これだけのことでも、出会いの変化は、実に、多彩である。それに対応するために、臨床家は「著名な名」や臨床指導者の言葉から、多くを学ぶ。しかし、そのように学んだ言葉を用いても、臨床の実際では予想された反応は起きない。人が異なり、場が異なれば、言葉の力も異なる。実は、そこが大事なのである。人間の「知」では捉え切れないものが、「心」である。それが人である。


 それでは、私たちは、一体、「何を」、如何に、学べば良いのか。
 精神療法の指導を受けているうちに、指導者と、話し方や身振りや服装まで似てくることがある。すぐれた師に恵まれた人は、一度は、これに近い体験をするであろう。しかし、大抵、こうなると学習は暗礁に乗り上げる。形だけ真似ても、「心」が伴わない。つまり、個人崇拝は「知」の放棄だからである。
 私が精神療法の指導をしていただいた土居健郎先生は、私がコピーしても及ばない人柄であった。それに気付くには、長い時間は不要であった。つまり、師の「心」をコピーするのは不可能であった。しかし、その不可能な処にこそ、私なりの「知」の技法を発掘するように励ましてくれたのは、他ならぬ、土居であった。
 模倣が明らかにするのは、模倣不可能な処こそが大事だということである。模倣可能と不可能のダイナミズムにこそ創造がある。
 その学習過程を、私は本書で、可能な限り言語化しようとおもう。


 要するに、「技法」を学ぶとは、「心」についての「考え方」を学ぶことであった。
 先達が、如何に、「心」を、「人間」を捉えているか。見掛けのハウツウではなく、彼らの「考え方」を学ぶ他にない。私にできることは、土居の「考え方」を調べ尽くすことであった。
 しかし、ここに、重要な落とし穴が見えてきた。実は、土居といえども、自分の中にある臨床の「知」が如何なるものかを、自力で言葉にできるとは限らなかった。むしろ、師が言葉にできない「知」を学びとり、それを言葉にすることこそが、臨床を学ぶことであった。師から模倣するのが不可能な処にこそ、学ぶ者の創造が求められた。それこそが、土居の臨床指導の真髄であった。
(本文より)

おもな目次▼

この本を手にされた方に

はじめに

第一部 心とは何か
 第一章 心の臨床とは何か
 第二章 心の臨床の理論
 第三章 「心」の概念枠
 第四章 この本の読み方

第二部 心の論理
 第一章 独我的自己
 第二章 相互的自己
 第三章 隠れた願望

第三部 心のメタ論理
 第一章 無我
 第二章 匿名的自己
 第三章 自然的自己

第四部 「あるがまま」の思潮

おわりに

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