失った心に精神療法(心理療法)はどのように関わりうるのか―。
本書では特に親子のテーマ、心身症状を取り上げ、内的対象喪失が心身に及ぼす影響と、失った大事なことに気づき受け入れるためのプロセスについて、症例を通しわかりやすく解説しています。
はじめに
心療内科医として臨床をスタートし、早30年の年月がたった。途中から精神分析的なケース理解と治療の奥深さに魅かれて、特に精神分析的精神療法を専門にするようになった。
その臨床を振り返る時、心療内科領域の臨床における「対象喪失」の重要性、なかでも「内的対象喪失」という視点の重要性をますます実感する一方である。
対象喪失は、精神分析が重視してきた概念のひとつである。それは、人が何か大事なものを失うことである。人の人生では好む・好まないにかかわらず必ずそれはおこる。親の死をはじめとする大事な人との別れはその代表的なものである。
大規模な災害や事故ではそこでおこる対象喪失もまた大規模であるために、個人の問題にとどまらず大変な社会問題となり、組織的な心理的支援が重要になることは周知のことである。しかし、仮に災害や事故・事件とは幸いにして無縁であったとしても、対象喪失は各人の人生にとって大きな問題である。
今振り返ると、心療内科で患者さんに会うようになったごく初期の頃から、対象喪失がその症状出現に重要な役割を果たしていたと考えられるケースにしばしば出会っていた。著者が心療内科の研修を始めて、すぐに出会った老年期初期の患者さん。お母さんを亡くした後、早めに退職して高齢者施設に入所してから、いわゆる身体不定愁訴と呼ばれる身体のあちこちの症状が増悪していた患者さんだった。しかしご本人は、自分が大事なものを失くしてから身体症状が増悪したとは意識しておられなかった。
心身症状における対象喪失の重要性にはっきり気づいたのは、親との死別をはじめとする数々の喪失を経験していた過食症の青年期女性Aさんとの出会いを通じてであった。Aさんも当初、自分にとっての喪失の大きさをはっきり自覚していたわけではなかった。Aさんは精神療法が進むにつれ、喪失を認識し、その痛みと向き合うようになっていき、同時に過食症状は軽快に向かっていった。
大事な人を死別によって失うという喪失は、喪失があったと第三者にもわかりやすい。しかし、心療内科を訪れる患者さん本人は、そうしたはっきりした喪失体験があっても、その喪失と身体症状との関係を必ずしも自覚していないことが少なくない。
さらに喪失には、他者にはわかりにくいものもある。心の中でおこっている、内的な対象喪失である。
Bさんは過食がやめられないことを主訴に心療内科を受診した。困っていることは、食事制限をしてやせたいのに過食してしまうことであって、やせ願望や食事制限を含めた摂食の問題全体を改善したいわけではなかった。「できれば一生ものを食べたくない」のに、意に反して過食してしまうのがBさんの悩みであった。外来治療開始後も、朝から何も食べず、夜は過食・嘔吐するという生活が繰り返された。
外来で話を聞いていくなかで、お母さんの話が少しずつ語られ、お母さんに愛されたい気持ちが強いことがわかってきた。しかしそれを上手に表現することはできなかった。そしてお母さんは、愛情をうまく表すことができない人であった。そのたびBさんは傷つき、絶食と過食のスパイラルは増悪するのであった。Bさんはお母さんの愛情が欲しくて仕方がなかったが、お母さんはBさんが欲しいような愛情を与えられなかった。求めても得られないものを求め続けるなかで、さまざまな問題が出現していることが推察された。お母さんはそういう人だと諦められれば、先に進めるのに。著者にはそう思えてならなかったが、それは難しいことであった。
この諦められなさは何だろうと思った時に、これは内的対象喪失なのだと思い至った。Bさんが欲しいような愛情表現は、お母さんは持ち合わせていない(愛情そのものが無いのかどうかはわからない。しかし表現力を持たないことは確かのようであった)。つまり、あると思ったもの、求めているものは、すでに無い。お母さんは生きておられるので、外的には存在している(外的対象喪失はおこっていない)が、Bさんが欲しいようなお母さんはいない、内的対象喪失がおこっているのである。前に進むには、無いということを認めて、内的対象喪失の「喪の仕事」をする必要があるのだが、Bさんは無いということを認めることができない。すでに対象喪失がおこっていることが認識できていないのであった。ご自分の抱えている困難の本質と向き合うために一般外来とは別枠の構造化した精神療法も折に触れ勧めていたが、それにも関心は向けられず、そもそも一般外来の定期的な受診すら難しかった。
本書では、対象喪失の中でもあまり知られていない、この「内的対象喪失」に着目する。それは、その人の心の中でおこる、他者からは気づかれにくい個人的な喪失体験である。
内的対象喪失は人生のさまざまな局面で大きな役割を演じ、心身に影響を及ぼすにもかかわらず、外からはわかりにくい。心療内科臨床では、内的対象喪失に対処しきれないことが問題の根源であると考えてよいケースに多く遭遇する。内的対象喪失は、わかりにくい喪失のため、すでに失っているということ自体に気がつかず、喪失を受け入れられないために心身に症状が出現していることが多い。本書では、著者が過去に学会発表したケースを元に再考したものと、臨床経験を元に主旨を損なわない程度に脚色・合成したモデルケースを提示しつつ、心身医療における精神分析的視点からみた対象喪失・内的対象喪失のかかわりを見ていきたい。
おわりに ─精神療法の仕事は喪の仕事─
ここまで、内的対象喪失を、特に親子のテーマと心身症状を中心に概観してきた。
これまで見てきたことからわかるように、「思い通りにならない」ということ自体が内的対象喪失である。親はコントロールできないし、子もコントロールできない。親も子も、非常に近い肉親であるけれども自分ではないからである。もちろん配偶者もコントロールできない。
他者をコントロールできないことに気づいている人でも、自分だけはコントロールできると思う場合がある。本書の冒頭から登場しているBさんは、親も子もコントロールできない中で、自分だけはコントロールしようとして(やせた自分でいようとして)絶食の反動としての過食・嘔吐という、ますますコントロールできない状態に陥っていた。
過食・嘔吐の患者さんから、治療が進む中で「自分だけはコントロールしたい(けれどできない)」と聞くことは稀ではない。神経性やせ症の摂食制限型の患者さんでは、それが自己破壊的な形で達成されてしまっている状態とも言える(神経性やせ症の患者さんでは自己愛的な形で自分をコントロールしたい願望が達成されてしまっているために、自己完結して、あまりそのように言語化されないように思われる。徹底した摂食制限型の患者さんでは、その自己破壊的なありようによって、二次的に周囲をコントロールすることにも成功してしまっている)。
自分をコントロールしようとして自分を苦しめることになる心身症状は摂食障害だけではない。物事を完璧にこなさないと気がすまないというのは、うつ病の古典的病前性格である、下田の執着気質に相当する。そのような人では、うつ病の治療として安静を指示されても、仕事や家事をしないでゆっくりするということを自分に許すのが難しい。また、片頭痛患者の性格として、ウォルフによる古典的な「片頭痛性格」(賛否はある)と言われているものがあるが、その中の特徴のひとつとされる「野心家で完全主義」という傾向は、物事が完璧にこなせない時に心理的に大きな負荷となることが推測できる。実際、「ちゃんとやりたい」「当然、きちんとこなしたい」という願望の強い片頭痛の患者さんとはよく出会う。
思うようにならないということは悲しいことである。しかし、悲しむには心のキャパシティを必要とする。精神療法の重要な仕事は、患者さんが自分の心に嘘をつかずゆっくりと向き合って、悲しいものは悲しめるように、安定した構造を提供し、そこにいることだと思う。